武庫川の河川敷を走っているときに見かけるアオサギです(結構でかいです)。近づいても逃げたりしません。(我関せずという感じで)のんびりしています。
連休中は、
武庫川河川敷を
アマゾンのオーディブルで小説を聞きながら(ゆっくり)淡々と走りました。
現在、聞いているのが「望み」(雫井脩介著)という小説で、まだ事実がどうか判らないのに、憶測だけで、あれやこれやと心配する人間の状況場面が頻繁に(長時間)出てきます。まだどうなのか、わからんのに何を心配しているのか、とつっこみたくなります。が、自分はどうなのか・・・
さて、
走りながらでも頭から離れない
仕事上、とても気になっていること(心配事)がありますが、自分でできるところは限られているので仕方ありません。
(ランニングすると気になり度合は軽減されます)
気になるということについてですが・・・
自分でコントロールできるものと、
自分ではコントロールできないもの、例えば、他人の行動にかかっているものなど、
があった場合
どちらが気になって精神的に負担になるかというと、
後者の自分ではコントロールできないものになります。
自分でコントロールできるものは、自分の行動にかかっているので(するかしないかだけで)、そんなに気にならず精神的負担は少ないのですが、自分でコントロールできないものについては、(自分ではどうしようもなく)どうなるかわからないので、こちらの方が圧倒的に気になり精神的負担になってしまいます。
自分ではどうしようもなく、どうなるか判らないから、(気にしてもしかたがないのに)逆にとても気になってしまう(あれやこれやと妄想を膨らませて不安感が増強する)という矛盾したような感じ。
気になるのは仕方がないので、できるだけそれを膨らませず、眺めるような感じでやり過ごすしかありません。
有名な「七つの習慣」の中で、自分でコントロールできるものを「影響の輪」、自分でコントロールできないものを「関心の輪」として出てきますが、自分でコントロールできる「影響の輪」の方に意識や力を注ぎ、自分でコントロールできない「関心の輪」の方は「なるようにしかならないので」気にしない、のがよいらしい。
それは、まあそうだろうな、と思います。自分でコントロールできないことをあれやこれやと考えても、多くが無駄なこと(無駄に消耗)をしているように思われます。
しかし、自分のできることに集中しているときはよいですが、ふと、気を緩めると、意識が自分のコントロールできない方に向かってしまいます。
「また、やってるよ」と意識して、できるだけ膨らませない、反復しない、とすることはできますが(意識的に膨らませない、反復しない、ことは重要)、それを止めることはできません。
自分でコントロールできないから、(逆に)気になってしまう。
何か大きなもの(宇宙とか運命とか)にゆだねて、手放す(まかせる)ことができればよいのですが・・・
自分でコントロールできないところにも、大きな力が働いており、必ず最終的にはうまくいくようにできている、ような絶対的な安心感・・・
自分でコントロールしにくいところは、自分であれやこれやしない方がうまくいく(ゆだねて、まかせる)・・・
アメリカの神学者 ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉
「変えられないものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ」